山王宮の歴史/由緒

山王宮日吉神社

社殿全景

式内・摂社「杉末神社」から続く宮津最古の神社


山王宮日吉神社は、宮津総氏神また宮津藩の守護神として、本殿右隣にある「杉末神社」を摂社として平安時代から続く神社です。御祭神は大山咋神(おおやまくいのかみ)・大己貴神(おおなむちのかみ)で、社記によれば平安後期に杉末神社境内に勧請されたとあります。
杉末神社は赤ちゃん初土俵入が行われる神社です。社記には今から遙か1,450年前、敏達天皇元年(西暦572年)にこの地に鎮座したと記されており、平安時代初期の延喜式神名帳にも宮津で唯一登載されています宮津最古の神社です。
宮津の地に人々が住み着いた遙か昔から、宮津の守り神として崇められてきました。宮津(宮のある船の着くところ)という地名の由来となった神社です。

江戸時代には宮津藩の守護神・総氏神に

江戸時代に入り、歴代宮津藩主は山王宮を宮津の総氏神として藩の守護神とします。ご本殿や幣殿、そして神輿や石灯籠まで藩主により再建、造営され神域中心に主神として祀られます。それにともない式内・杉末神社は摂社として宮津西地区の守り神となります。江戸中期の文書では宮津の城下のほぼ全てが山王宮の氏子であるとされていますが、そうした中で続いてきましたのが例祭である山王祭です。
藩祭とされた山王祭は城下上げての大祭で武家、町民挙って参加しました。宮津祭と呼ばれる所以です。山王宮日吉神社は宮津を統一する総氏神として城下町衆と共に様々な伝統儀式を執り行って今日に続いて来ました。宮津の町と山王宮は一体となって城下町独特の素晴らしい鯔背な祭文化を形作ってきたといえます。
現在でも毎月初めの1日、また例祭日と同じ15日には月次祭が執り行われ、宮津の平安を祈る儀式が変わらずに続けられています。

摂社・杉末神社について

宮津という地名の由来となった城下最古の神社

杉末神社は日吉神社の右隣にあり、日吉神社が近江から勧請される以前からこの地にあった式内社です。社記によると敏達天皇元年に鎮座と在ります。敏達天皇元年とは西暦572年、今から約1,450年の時を遡ることになります。式内社とは平安時代初期の延喜年間に醍醐天皇の命により編纂された「延喜式神名帳」にその名が登載されている神社のことで、そのことから既に約一千百年前にはこの地に在ったことが公の文書でも確認される神社であると言えます。
当地の宮津という地名は宮(神社)のある津(船の着くところ)という意味で、奈良時代・平城宮跡の木簡に記された地名です。つまり「宮津」という地名は奈良時代には既に使われており、その史実から宮津地名に関わる「宮」は、当然延喜式に記されていなければならない神社であることがわかります。
その延喜式神名帳には所謂宮津の地に杉末神社以外の神社は記載されていません。杉末神社が宮津の地名の由来となった当地最古の神社であることを示す重要な資料と言えるわけです。

山王宮摂社

摂社・杉末神社

もとは古代宮津の産土の神

杉末神社は遙か昔、宮津の地に人々が住み始めた頃に、人々の守り神として祀られた産土(うぶすな)の神です。つまり宮津の地の守り神であったわけで、山王の神はその神域に平安時代中頃に末社として迎えられました。
戦国時代、舞鶴城へ急ぎ帰る細川氏を宮津の漁師が助けたため、太刀を授けられます。その頃の漁師は現在の漁師町ではなく宮津の浜各所に住んでいたわけですが、漁師はその太刀を杉末神社に奉納したと記録されています。山王宮が江戸時代に宮津総氏神となる以前の記録であるわけですが、杉末神社の産土神としての宮津での位置付けを窺い知ることの出来る記録であると言えます。
例祭に行われる赤ちゃん「初土俵入」は、江戸時代の中期から地元力士により執り行われてきた奉納花相撲の影響を受け、氏子中の有力な家々がその屋号などを元にした化粧回しをつくりその息子達を土俵に上げたのが始まりです。山王祭が宮津祭と呼ばれたのに対し、杉末神社例祭は西祭また、甘酒祭と呼ばれたと記録されています。